思い出のカルテ

 産婦人科に入局し、2、3年目は福岡赤十字病院で研修させてもらった。当時、分娩は1日10例くらいあり、バリバリの助産師さんたちに鍛えられる日 々だった。研修医にも外来担当があり、これも毎日が勉強だった。まだ外来に 出て間もない頃、40歳くらいの妊婦が受診した。1回も受診歴がなく、母子 手帳も持っていなかった。無職の夫と3人の子供たちのために、朝早くから夜 遅くまで働いており、きつそうな母親を見かねて、高校生の長男が、「お母さ ん、病院に行ってこいよ」と、新聞配達のバイト代をくれた、と前歯が欠けた 笑顔を見せた。妊娠週数は正確にはわからないが、10か月くらいの胎児が確 認でき、胎児心拍も正常だった。子宮口が3~4cm開大しており、入院となっ た。外来で診察した医師が主治医という決まりがあり、私が主治医だった。外 来が終わって病棟に上がった時には、昼食を完食し、すでに分娩室だった。分 娩は順調に進行し、さあいよいよ産まれる、という時、突然の心停止!

 何が起こったのか、一瞬頭が真っ白になった。心臓マッサージを行い、救命 処置を行ったが、残念ながら亡くなられた。児は、先輩医師がすぐに吸引で娩 出したが、仮死状態で、偶然通りかかった小児科医が挿管し、小児科に搬送さ れた。

 初めての母体死亡の経験だった。夫はアル中で無職。なかなか連絡がつかず 、長男が一生懸命探して病院に連れてきてくれた。妻の亡骸を前に、夫は名前 を叫んで号泣していたが、長男は歯を食いしばって涙を堪えていた。何も声を かけられなかった。部長と婦長が対応してくれ、私は後ろでボーッと泣いてい た。

 心筋梗塞または肺梗塞だったのかもしれない。見た目が健康そうでも、心肺 機能はギリギリだったのかもしれない。解剖をしなかったため、はっきりした 死因は不明だった。

 妊産婦死亡率は、妊娠10万例に対する1年間の死亡数で表され、研修医時 代の1986年は12.9、2020年は2.7である。日本の妊産婦死亡率は 世界でも低いが、ゼロではない。この母体死亡を経験し、その後は分娩に立ち 会うことが怖くなった。順調に進行していてもまた同じようなことが起こるか もしれない、と思うと、無事に分娩が終了するまでは怖くてたまらなかった。 このまま産婦人科を続けて行くことができるか、迷いも出てきた。部長はじめ 先輩医師の叱咤激励と、百戦錬磨の婦長はじめ助産師の皆さんに支えられ、研 修を続けて行くことができた。覚悟もできた。研修の最後は、自分の出産とい う形で終了した。無事に産まれてきたときの安堵の気持ちは、言葉では言い尽 くせない。

 さまざまな場面で、何かが起こるかも知れない、頻度が少なくてもゼロでは ない、ということを教えてもらった症例である。

 
池田 景子(2024年5月『熊本保険医新聞』掲載)