古い手紙

 新型コロナウイルス感染流行前から十数年来流行が続いている『断捨離』。高齢の母が家に保管していたわたしたち姉弟の子供時代の思い出のモノを処分した。私に手渡されたのは私が小学生のころに母と交わした古い手紙の一部だった。
 母の誕生日を祝う小さな手紙(プレゼントを準備しなかったことを詫びている)、テストの成績が悪かったことの許しを請う反省文とそれに対する母からの返事(おそらく下書き)、などなど。読んで背筋が冷たくなった。恐ろしい!
 数年前、私自身も断捨離をして仕会人になってからの古い日記を処分した。日記といっても、猛烈に落ち込んだり、悔しかったり、怒りに燃えているときに赤裸々にそのときの感情を書きなぐったもので、年に数日だけ記録されている代物だった。読み返すと辛い感情を書きなぐったあと、わたしは反省をしていた。辛い経験を繰り返さないように反省し、対策を書いていたのだが、見事に同じような失敗が繰り返されていた。反省が活かされていない!
 日記は反省の失敗症例集だった。そして今回、小学生の私の手紙にその反省癖の萌芽を発見した。
 小学生の私はなぜに反省したのか読み解いてみるとき、テストの結果が悪かったことよりも、それで母親をがっかりさせるのが怖かったように思う。当時の私には『捨て子』妄想があり、また捨てられてしまうのではないか、と半ば本気で心配していた。キャンディキャンディ、ハックルベリー・フィン、小公女セーラ、デイヴィツド・コパフィールドなど、当時触れた物語に出てくる主人公は孤児であることが多かったせいなのか。長男を優遇する直系家族型の規範が社会に刷り込まれたものを、子供ながらに嗅ぎ取った結果だろうか。実際のところ、両親はこどもたちを大切に育ててくれた。成長とともに姿かたちに両親の片鱗が色濃く反映されていることを確認し妄想から解放されたが、小学生の私から母への手紙には反省というより愛を乞う気持ちが感じ取れて胸が苦しくなった。その後も続いた私の反省癖は、反省という形式をまとってはいるものの、実際は社会から脱落する恐怖、刷り込まれた社会規範から逸脱する恐怖からきた『社会から捨てられない対策』で、私は社会に『愛を乞う人』ではないか。社会の規範は大きく変化してきている。私の価値観も変化した。これから私の反省も形をかえていくだろう。
 小学生の私の手紙とともに古い反省癖もお焚き上げしよう。

合志第一病院 今村 理恵(2022年3月『熊本保険医新聞』掲載)